小説貝田
『椰子は舞い降りた』
「ココナッツ神社って知ってる?」
徹夜明けの僕に、先輩はそう囁いた。
「は」
脳に充分酸素が回っていなかった僕は、返事とも吐息ともつかない声を出した。
それまで僕の隣を歩いていた先輩は歩調を急に早め、自転車を引く僕の前に立ちふさがり、両手でステンレスのカゴをつかみ、半身を乗り出す。先輩の顔がぐぐっと目の前に迫る。頭蓋の中をもやもや漂っていた眠気が、溶けるみたいにどこかへフェードアウトしていく。
「ココナッツ神社って知ってる?」
僕の顔を見ながら、上目遣いにもう一度言った。いたずらめいた瞳が笑う。僕は答えた。
「知らないですね。なんですかその地方自治体が考えた観光資源みたいなネーミング」
あまり的を射た例えではないかもしれない。さっきより意識がはっきりしてきたとはいえ、脳がスリープモードから完全に起動しきっていない。やっぱり朝は苦手だ。といっても、時計の針はすでに12時を回っていた。朝とは何だったのか。少し離れた先にある国道からは、行き交う車が無遠慮に奏でる真昼の交響楽が響く。
「そっか」
自転車のカゴをつかんだまま、先輩は中に突っ込んだ2つの学生カバンに目を落とす。
色あせた三毛猫のストラップの付いたカバンと、何もつけていない無愛想なカバンとを口いっぱいに飲み込んだカゴは今にも破裂しそうだ。
「わたしもよく知らない、というかちゃんと覚えてないんだけど」
と言いながら先輩は、右の手の人差し指と中指で三毛猫ストラップの首を挟む。そしてやわらかく指を開いたと思うと、また首を挟む。これを二、三回繰り返す。何かを考えているときの仕草だ。
「ずっと昔さ、そんな場所に行った気がするんだよね」
首を挟んで虐げるのをやめて指を開いたまま、先輩は三毛猫をぼんやりと見ながら、そう言った。
「神社っていうよりなんというか、祠…?って感じだったかもしれないけど。多分、ここから結構遠いところだった気がする」
「あるんですか、そんなけったいな神社的な何かが」
ココナッツ神社、…ココナッツ神社?と目覚めたての脳裏で反芻しながら、僕はズボンの右ポケットに手を突っ込みスマホを探す。
「いや、それはダメでしょ」
ちょうどスマホを探り当てたところでポケットに突っ込んだ右手首を掴まれ、制止される。
「いけないねえ。君は人生の楽しみを知らなすぎる」
グググっと、僕の手首を掴む力が強まる。
「人生の楽しみ?何のことです?」
「グーグル検索では人生の解答を見つけることはできないのだよ」
女子高生に人生について教え諭される。ここはいつからマクドナルドになってしまったんだ?
先輩は俺の手首を解放し、もう片方の手もカゴから離し、またゆっくり歩き始めた。僕はその後を追いながら聞く。
「ココナッツ神社が、人生の解答というのに値すると?」
「そうかもしれないし、そうじゃないかもしれない」
心なしか、一生ノーベル文学賞が取れなさそうな言い回しだ。
「昔行った気がするっていうのは、いつ頃の話なんです?生まれる前とか?」
「五歳とか六歳とか、それくらいだったのかな。多分お休みの日で、家族みんなでどこかに出かけたんだけど、右を見れば海、左を見れば畑っていう景色が延々と続いてすごく退屈で。でもやることなんて何もないからず〜っと窓から景色を見てたんだよね。そしたら」
「…」
何とも言えず無言でいると、二、三歩先を歩く先輩は急に一歩後ずさって、半身を返してこう言った。
「どうかした?他人の昔語りなんて興味全くない?」
「いえ…それで、その後どうなったんです?」
「ここからが重要なんだけど」
先輩は再びそぞろに歩き出す。僕はその後に続く。
「『南国椰子の風味 名物ココナッツソフトクリーム』っていう看板が見えて」
「ココナッツ神社じゃないじゃないですか」
「まあそう話の先を急ぐなよ、早死にするよ?」
「でも、ここで分かれ道ですよ」
我々は長い路地を歩いていたが、今やその道も尽き、一気に視界が開け、海辺の景色が広がる。この路地はT字路になっていて、国道と突き当たっている。国道に並んでローカル線の線路が走り、さらにその向こうには海が広がっている。そしてT字路を右に曲がれば市街地、学校のある方面に戻ることになる。左に曲がれば駅がある。時刻は1時前だった。
先輩は「止まれ」の白い停止線の前で立ち止まり、トラック、自家用車、市営バス、雑多な車が行き交う道路を見渡していた。
「なるほどね」
先輩は振り向いてこう言った。
「ねえ、運命って信じる?」
「今時陳腐なドラマでもそんなセリフ聞かないっすね」
「私は一般論が聞きたいわけじゃないんだよね」
「そうですか。運命は…自分自身の手で切り開くものだ!」
「今時陳腐なアニメでもそんなセリフ言わないよ」
「僕もそう思います」
「でもねえ、私は今日、運命はあるって確信したよ」
「なぜです?」
「だって私たち、この広い広い宇宙の、永い永い時間の中で、同じ年の同じ月の同じ日に午前の授業全部ブッチして、同じように正門からの登校を避けて、同じ裏門で巡り合ったんだよ」
「そうでしたね」
「そしてそんな寄る辺なき私たちの前に『ココナッツ神社』と言うミステリーが提示されてる」
子供の頃のあやふやな記憶を『ミステリー』と言い張ってはばからない。
そして『ミステリー』と言い張る割には肝心の神社の説明は差し置かれ、ココナッツソフトの話しか聞いていない。
「ね、探しに行こう?」
先輩はふたたび自転車のカゴを両手でがっちりホールドし、こちらに顔を近づける。
「…何をです?」
「ココナッツソフトを」
「ココナッツ神社は?!」
「あ〜…ココナッツソフトの店の近くにあったよたしか」
「ココナッツソフト食べたいだけなんじゃないですか?」
「それはある」
正直は美徳である。
「でもそれ以外ほとんど覚えてないんだよ、神社のこと」
「覚えてない?ココナッツソフトの店の近くに神社があった、ってこと以外?」
「そのとおり!」
僕は空を見上げる。よく晴れた三月の陽光を湛えた空が、これでもか馬鹿野郎といった勢いで広がっている。街路には、椿の花が咲いていた。薄い層雲がたなびき、遠く水平線近くを赤いヘリが低く飛んでいる。海の上には、ホワイトの修正液を一滴落としたみたいに小さな漁船が一艘泊まっている。
のどかな春の初めの海辺だ。
その時、水面を駆け上がってきた強い汐風が、頬を打つように吹き荒れた。澄み渡った空を飛ぶ海鳥たちが、向かい風に押しまくられ空中で静止していた。
…ああ、面倒な事案になりそうだ。僕は嫌々ながらに、先輩に尋ねてみる。
「先輩さっき、ここから遠い場所とか言ってましたよね」
先輩はスポーティなショートヘアを少しかきあげ
「言ったよ」
「大体どの辺りとか、アテはあるんですか?」
「ないね。だから探しに行くんじゃん」
「ナンセンスだ」
やれやれと両手を上げ、あからさまに呆れてみせる。先輩が。
「なんです?僕の現在の精神状態のモノマネですか?うまいですねえ」
先輩は意にも介さない。
「キミはわかってないねえ、ホントに」
「何のことです」
「人生の楽しみ、だよ」
「わかりませんね」
午後のゆるやかな陽光が、ほのかに寒い大気を満たす。
雲に、海に、街路の植樹に、堤防に憩う海鳥に、線路に、電柱の変圧器に、国道のアスファルトにも、あまねくあたりに春が降っている。
先輩はそんな景色を背にして立ち、まるでこれからまばゆく芽吹き始める新しい世界の真ん中にいるみたいだった。それでも。
「僕にはわかりません。『人生の楽しみ』って、一体何なんです?」
「それは私にもわからない」
「いやわからんのかい!」
さっきからさんざん『私には全部わかってしまってるんだぜ』感出してませんでしたか、先輩?!
「でも、君にはわかるかもしれない」
そういうと先輩は停止線を一歩越え、ひらりと身を翻し、僕の顔を見た。
「君には解けるかもしれない、『ココナッツ神社』の謎が」
話はまたも神社に舞い戻る。
どうにも、胸の奥から訝しい思いが湧いてくるのを抑えられない。
信心深さとかいうものに特段縁がないくせに、どうして先輩は神社に執着するのか?
「…なんで、そんなにこだわるんですか?その、ココナッツ神社とやらに」
「ココナッツ神社のこと、私あんまり覚えてないって言ったよね」
「ええ。だからなおさら不思議です。神も仏も信じないけど自分のことだけは信じる傲岸不遜な先輩が、そんな得体の知れない神社に何の用があるんです」
先輩はふっ、と微笑んだ。その口元は、今まで見たこともないほど悲しげに見えた。が、それはつかの間のことで、一秒の後にはどこか蠱惑的な笑みを浮かべて言った。
「実はもうひとつ、ココナッツ神社のことで、はっきり覚えてることがあるんだ」
「何でしょう」
「見たんだよ、舞い降りてくるのを」
「え?」
「ココナッツ神社が、空から舞い降りてくるのを見たんだよ」
つづく