怪談
夏のクソ蒸し暑い昼下がりのことだった。
色々あって鬱病状態になっていた私の頭の中を、松屋のおろしポン酢牛めしの幻影が駆け巡っていた。
通りかかった松屋の店内を覗くと、短い昼休みにわんさか湧いて出て来たサラリーマンのワイシャツの背中がカウンター席を隙間無く埋めていた。
今日は松屋にすら縁がないらしかった。そのまま立ち止まる事無く松屋を通り過ぎて歩く。
歩きながら私は近くにある家系ラーメンの店のことを考えた。
午前中は走ったり汗まみれになったり流血したりして体力を消耗したし、ここらで狂った量の油と塩分と小麦粉の塊を腹に入れるのもアリか…と思ったから。
しかしそこまで考えた時私の脳裏でギトギトした家系スープが氾濫し、思わず立ち止まってしまった。
冷静に考えればジメっとした暑さの中で食べる家系は地獄としか思えない。
食べきれる自信が無い。もっとあっさりしたものが良い。
ふと見ると、私が立ち止まったのはちょうど寿司屋の前だった。
寿司屋と言っても個人経営ではなくチェーン店のようで、今はちょうどランチタイムだった。日替わりにぎりのランチが790円(みそ汁付き)。
(みそ汁付き)という単語に惹かれやすい私は、ふらふらとその店に入った。
店の中はガラガラで、先ほど覗いた松屋と比べれば静かで落ち着いていた。
日替わりにぎりランチを注文し、「追加のご注文がございましたらお気軽にどうぞ〜」という店員の声を頑に無視しているとやがて寿司が出て来た。
まぐろ・いか・えび・カツオ・炙りサーモン・玉子・ネギトロ軍艦・鉄火巻×3・カッパ巻×3 というラインナップで、いかにもランチメニューだなという感じがする。
とりたてて旨くもなく、かといってとりたてて不味いわけでもない普通の寿司をそれなりに満足しながら食べていると、あおさみそ汁とセットのサラダが出て来た。
いかにも「たった今みそ汁サーバーから出てきたばかりです」とでも自己紹介しそうな薄いみそ汁が、松屋への郷愁の念を淡く駆り立てる。
サラダの上に乗ってるベビーキャベツの形が判然としないほどにぶっかけられたフレンチドレッシングの安っぽくキツい酸味も、松屋のカウンター卓上に常備されているドレッシングを思い出させる。
せっかく寿司を食べているのに、私の頭の中は松屋で一杯になってしまった。
しかしここは松屋ではないのだ。
何かを食べようと思ったら、安直に松屋で済ませようとしてしまう自分。
いつしか松屋フーズの店に安心感を覚えるようになってしまったことにうんざりしていた私にとっては、何となく入った全く知らない店で食事することが思いのほか大きな冒険だった。そしてそれは案外、悪い気分のものではなかった。
今度また、この店に来てみようと思った。
そういえば店の名前をよく見ていなかった。
私は家に帰ってからグーグルマップで今日入った店の位置を調べ、出て来た店名で検索した。