絵に描いた女について

生まれて飛び出てキモ・オタクだったので、まだクソクソのクソガキだった頃から私は絵に描いた女のことを考えていた。

 

保育園の頃、眠れないお昼寝の時間に妄想していたのは美少女戦士セーラームーンのことだった。当時はアニメのセーラームーン本編は見たことがなく(男が見てもいいものではないという意地があった)、保育園で見たセーラームーンのアニメ絵本が「絵に描いた美少女」とのファーストコンタクトだった。

小学校に入ると劇的な変化が発生した。

鍵っ子だった私は、誰もいない家でアニマックスやキッズステーションで人目を気にせずアニメを見ることができるようになったのだ。

その自由も学校から帰った後の四時から親が帰ってくる六時半ごろまでに限られていた。

そしてちょうどその時間にやっていたアラレちゃんやらんま1/2うる星やつらやぴちぴちぴっち、おもいっきり科学アドベンチャー そーなんだ!といったアニメに出てくる女をひたすら観ていた。

本当は土曜朝やニチアサのハヤテのごとく!プリキュア東京ミュウミュウを観たかったのだが、それは自分が見てはいけないもの、禁じられた何かであるように感じられ、何より直接的にはそういうアニメを見ている自分を親に(放送が土日なので家に親がいる)見られたくないという""があり、遂に視聴することはなかった。

家に親がいる平日午後七時以降にやっているきんぎょ注意報!きまぐれオレンジロードが観たくてしょうがなかったのを覚えている。我が家にはリビングに一台きりのテレビしかなく、親の面前でそれらのアニメを見るのも『恥ずかしいこと』だと思っていた(別に「アニメを見てるとバカになる!」と言うタイプの親ではないのだが…)

 

 

クソガキだったその頃の私が感じた『恥ずかしさ』はいったいどこから来たのか。

それは単なる親に対するクソガキなりの羞恥、もしくは恐怖心の表れだったのか。

それもあったかもしれない。

 

しかし、それよりももっと救いがたい理由があるように思えてならなかった。

それはおそらく、他人と向き合うことへの恐怖だった。

友達を作るのが苦手で手先が不器用で運動ができず小学校に入って相当経つまで靴ひもすら自分で結べないような子どもだった私にとって、現実の学校も生活も煩わしいものだった。

 

現実が煩わしいならどうすればいいか?

現実を"省略"すればいい。

省略、と言って分かりづらければ切り捨て、と言ってもいい。

そしてその"現実の省略"なるものを、私はアニメの中に見出していた。

世の中の煩わしさやめんどくささを捨象し抽象化し省略した表現のしかた。

そのような表現によって作り出される作品のなかでは、描かれる被写体の余分な要素が『省略』され、余計な何者にも邪魔されることなく、あらゆる事物の「本質」を感じられる。

そして、そういう表現がもっとも生き生きと表れるモチーフの一つとして、『美少女』というものがあったのだ。

輪郭の歪みや肌のキメだのといった瑣末で余分な情報を捨て去って、シンプルに完成された曲線や美しい肌を描き出す。それによって描かれる対象の情報量は減ってしまい、描かれる対象が本来持っているであろう"個性"が失われてしまう側面もある。

しかし優れた(美少女)イラストは、線のタッチのメリハリやケレン味、配色の巧妙、劇的な構図の選択といった多彩な手段で雑多な情報を切り捨て省略し、その果てに現実を越えた""を実現するのだ。

 

美少女イラストなど、画面上に現れている全ての要素がウソ八百の虚構でしかない。

それでもその抽象化され省略された表現は、クソ以下の現実のもろもろを踏みつけにして、日常を超えた美へと人を誘うことができる。

 

というわけで、私は絵に描いた女が好きだ。

むしろそれ以外は全部好きではない。