ホ のテーマ

十億年ぶりに休日の街へ出かけて本屋に行ったら、原民喜の新書が出ていたので買って読んだ。

私はこれまで原爆を描いた小説家・詩人としての原民喜しか知らなかったが、その新書を通じて原が終生抱えていた孤独や死への深い親しみの念や、死んだ妻への思慕を垣間見た。ごく当たり前の事実だが、『原爆作家』であることが原民喜のすべてであるわけがない。作家としての、詩人としての、そして人間としての原民喜の足跡が著者による丹念な研究と取材によって描き出されていて、大変良い入門書だと思った。

 

しかし…私はやはり原爆を描いた『芸術家』としての原民喜、そしてその『芸術』にどうしようもなく引き寄せられる。

以下に引くのは原の代表作である『夏の花』にも引用された散文詩「ギラギラノ破片ヤ」である。

 

ギラギラノ破片ヤ
灰白色ノ燃エガラガ
ヒロビロトシタ パノラマノヤウニ
アカクヤケタダレタ ニンゲンノ死体ノキメウナリズム
スベテアツタコトカ アリエタコトナノカ
パツト剥ギトツテシマツタ アトノセカイ
テンプクシタ電車ノワキノ
馬ノ胴ナンカノ フクラミカタハ
ブスブストケムル電線ノニホヒ

 

このような詩が、書かれてよいのだろうか。

この凄惨な光景をカタカナで抉り出した一編の詩に、あろうことか私は例えようのない美しさを感じる。

奇妙なリズムの焼けただれた屍体たちは、『その朝』まで当たり前に工場へ会社へ学校へ、それぞれがそれぞれに街路を行き交っていたし、ギラギラの破片や灰白色の燃え殻は、『その時』まで立ち並ぶ家々の建て具であったり窓であったりして、人々の当たり前の日常を形作っていた。

その全てが剥ぎ取られた後に広がった世界には、凄まじいほどの静寂が流れている。ニンゲンの死体も破片も燃え殻も電車も馬も、すべてが静止したオブジェに還った。

そこにはもう、一人一人の人間たちの、それぞれに複雑に曲がりくねった『生』というものは全くない。ひとまとめに一緒くたになり、顔の区別もつかない赤剥けの、黒焦げの、ねじ曲げられ、火炎の熱とガスで膨張した死体が転がっている。

後に残されているのは優美でも華麗でもなく、剥き出しにされた死と静寂だけだ。

『パツト剥ギトツテシマツタ アトノセカイ』は、個々の人間の生命よりも前にある、ヒトという存在を超越した世界を我々の前にさらけ出したのだ。

 

そこにあるものは、『美』というものに他ならないではないのか?

私の頭の中で、そんな禍々しい疑いが頭をもたげるのだった。

このあたりの感覚は自分で下手に説明するより、以下に引く坂口安吾の一節を読んでもらったほうがいいかもしれない。

坂口安吾は『赤頭巾』(最後に猟師が出てきて狼に食べられた赤ずきんとおばあさんを助け出し、狼を池に沈めて退治してしまう『現代版』赤ずきんではなく、赤ずきんが狼に食べられ、そこで終わってしまう『原作』の赤頭巾である)を例にあげて以下のように書いている。

 

「愛くるしくて、心が優しくて、すべて美徳ばかりで悪さというものが何もない可憐な少女が、森のお婆さんの病気を見舞に行って、お婆さんに化けている狼にムシャムシャ食べられてしまう。
 私達はいきなりそこで突き放されて、何か約束が違ったような感じで戸惑いしながら、然し、思わず目を打たれて、プツンとちょん切られた空しい余白に、非常に静かな、しかも透明な、ひとつの切ない「ふるさと」を見ないでしょうか。
 その余白の中にくりひろげられ、私の目に沁みる風景は、可憐な少女がただ狼にムシャムシャ食べられているという残酷ないやらしいような風景ですが、然し、それが私の心を打つ打ち方は、若干やりきれなくて切ないものではあるにしても、決して、不潔とか、不透明というものではありません。何か、氷を抱きしめたような、切ない悲しさ、美しさ、であります。」 (坂口安吾文学のふるさと』)

 

人間としての良心や正義や理性、そういったものよりも前に人間を圧倒する『美』は存在している。

もしも良心や正義や理性の中に美しさというものがあるのなら、それは良心や正義や理性そのものが美しいのではなく、『美』によって我々にとってのあらゆる『正しさ』が規定されているのだ。

それがいかに傲岸不遜な思考であろうと、私にはそのようにしか考えられない。

 

そんなふうに地に足つかないことを考えながら、私は短パンのポケットに入れたのを忘れてそのまま洗濯してしまった元はレシートだった白い粉をポケットから搔き出し搔き出し、ゴミ箱に捨てていた(GUで買ったポケットが裏返しにできない粗悪な短パンなので、粉々になって掴み取りづらいレシートを手で掻き出すしかなかった)。