絵を描いていない。

 

CLIP STUDIO PAINTを起動し、さて何か描きたいなあと思いつつ描かないし、

せめてポーズ集を開いて多少なりとも絵の練習を、と思いつつ何も描かない。

なにも生み出していないし、なにも創り出していない。

だいたい、このクソブログすらだいぶ放置していた。

しかしブログ放置問題の方は、いまや見事解決されつつある。

絵を描かなすぎることをネタに記事を書くという奇手によって。

一つの問題が、また別の問題を解消している。

なかなか、世の中はうまく回るものだ。

なめてんのか?

 

「絵を描かない」ということ自体は、お絵描きのために必ずしも悪いことではない。

と、思っている。

一定期間絵を描きまくる。

熱中して、描く。

ふと、描くのをやめる。

しばらく何も描かない。

絵を描いていた、という事実を忘れるほど、お絵描きから頭を離す。

そうして時が経ってから、おもむろにかつてかじりついたスケッチブックを開き、眺める。

描きまくった絵、ことごとくがヘタクソである。 

顔のパーツの配置がおかしく、奥行きがなく、デッサンが狂っている。映えない。

あはは、これ描いた奴脳みそ2ビットしかねえだろ、と思う。

しかしあれもこれもどれも、まぎれもなく自分が描いた絵である。

しばらくお絵描きから離れることで頭が冷め、自分の絵を客観的に見られるようになっているのだ。

これには大きな意義がある。

自分の手グセ、絵柄、認識の歪みを実感として把握できる。

どこをどう直せばより良い絵になるのか、多少なりとも見えるようになっている。

つまり、絵を見る目が肥えるのである。

ただし、そうやって自分の絵のヘタクソさに直面すれば、当然心にダメージを食らう。

打ちひしがれた心で、再び絵筆を持つことができるかというのはまた別の問題である。

 

また別の問題である、とは書いたが、ここが一番重要である。

自分の絵は、ヘタクソである。

その認識から発して、何くそ、自分には才能があると信じて描き続け、もう一度客観視して打ちひしがれても描き続け、そこまでお絵描きに愚直になれる人間なら絵は勝手に上達していく。

問題は、そんなガッツがない人間はどうすればいいんだよという話である。

別に、解決策はない。

あるなら、自分はとっくに神のごときお絵描きマンになっていることだろう。

自分自身を引いた目で見る。

自分の無力さを、才能の欠如を思い知る。

なによりも、上達のための努力をしてこなかったことへの後悔が湧き上がる。

自分という人間の、どうしようもないほどのくだらなさ。

それが、自分の肉体にべったりと癒着している。

剥がしたい。

が、剥がすことができない。

剥がす痛みに、耐える自信がないからである。

 

 

しかし、無理に剥がす必要もないだろう。

有史以来、くだらなくなかった人間などいない。

俺はダメだ、終わってると自己否定にかまけていてもしょうもない。

言うまでもなく、自己否定と自己反省は別物である。

自身の才能のなさを見つめ、今の自分に何ができるか。

絵がうまくなりたければ、それを考えるべきなのだ。

 

そんなわけで意識高めに自己反省すれば、このようなクソ愚痴ブログを書いている時間こそお絵描きに充てるべきではなかったか、という平凡かつ当然の答えに行き着く。

行き着きつつ、描かない。

描けば、それなりに楽しい。それはわかっている。

でも、今日はめんどくせえ。意識のバイタルが下がる。明日こそ、描く。

こうして、人生というキャンバスにクソでかい墓穴を描く日々が続く。

 

DEAD END.