一人で肉を焼くための店で一人で肉を焼くということ

世の中の事物はすべて、松屋っぽいかそうでないかの二つに分類することができる。

この観点から見ると、例えばアウシュヴィッツなどはかなり松屋っぽいのだが、昨日は偉大なる新発見をした。

一人焼肉専門店。

一人焼肉専門店も、かなり松屋っぽいのだ。

 

昨日の夕方、何の前触れも、一切の合理的理由もなく「今日のうちに直火で焼いた肉を食べなければ、今後死ぬまで一生後悔し続ける」という強迫観念が急激に湧き上がり、濁流となって私を襲った。

だから私は、近くにあった一人焼肉の店に避難するほかなかった。

私はこれまで、その店の前を毎日通りかかっていた。

気になり続け、しかしなんとなく気が向かずスルーして、これまで一度も入店したことはなかった。

そんな因縁の店で、私はある世界を見た。

知っての通り、一人焼肉専門店は『1人1台の無煙ロースターで好きなだけ一人焼肉が楽しめる新感覚の焼肉ファーストフード店』なのだが、そこにおいてはすべてが簡潔にして機能的だ。

小綺麗なレンガ調の、主張しすぎない内装。店の中央に広い卓があり、それを囲うようにしてカウンター席が並ぶ。

卓上では、1席に1台の割で埋め込まれた無煙ロースターが、そっけなく鈍色に光っている。ロースターの手前には底の浅い穴が開いており、店員が運んでくる肉・ごはん・キムチ・スープを乗せた長方形のトレーがピッタリ収まる。注文はタッチパネル、おしぼりと箸とつまようじは各席に用意されている。

注文し、店員が肉を運び、ロースターに点火して去っていく過程で、客はほとんど一言も発する必要がない。

すべての動線に、いっさい無駄がない。

そこに、ひたすら客を回転させるという、システマティックで工業的な意志を感じる。

むしろ、それ以外には何もない。

一人焼肉専門店。

そこは、人間の心身の奥深くから湧き上がる衝動を、機械的に・効率的にごみのように処理するための、そのためだけに特化した最終処分施設なのだ。

その施設の末席に座り、私は肉を焼き、タレにつけ、ごはんで食べる。

その合間合間に適宜、セットのわかめスープを飲み、キムチをつまむ。

肉を焼き、肉を焼き、タレにつけ、食べ、肉を焼き、水を飲む。

無機質なルーティーン。

そこで自分はもはや、ただ機械的に肉を焼き続ける、人の形をした、人ではない何かになっている。

 

その徹底的な人間の尊厳の奪いっぷりに、私は松屋のカウンターとおろしポン酢牛めしと、つけあわせの味噌風味のお湯を思い出さずにいられなかった。

大変素敵な強制収容体験だった。

また収容されに行きたい。