夏の日の終わりのはじまりが今終わるところ

『夏の日の終わりのはじまりが今終わるところ』

 

それはそれでいいんだけど。

その一言が、口をついて出てしまう。

それはそれでいいんだけど。

その一言を教室で口に出すと、出た!いつものやつ!とみんなが笑いだす。

今日の試験終わりのHRの後もそうだった。

完全に口癖。

それはそれでいいんだけど。

でも実際、それはそれでいいじゃん。

テスト全然できなかったとしても、期末を乗り切ったらあとはもう、夏休みが始まるだけだ。赤点のことはともかく。

それは、それで、いいんだ、けど。

口をついて、そう言ってしまう時。

何かがつかみとれてない感じが、ほんのすこし、ある。

指と指の間からこぼれ落ちる何かがある。間違いなく。

本当は何かが、それはそれでよくないという感じ。

そんな意味不明なことは教室の誰にも、学校の誰にも、世界の誰にも言ったことないけど。

それはそれでいいんだけど。

なんとなく、「けど」のところで、言葉のお尻がずり下がる感じ。

ボルダリングで、狙ったホールドをうまくつかめなくて、手だけが滑りおちるみたいに。

なにもつかめずに、どこまでも下に滑り落ちてしまう。

どこまでも下に。どこまでも。どこまでも滑落する。

その底に一体何があるんだろう。

そこまで考えるといつも、頭の中に真っ黒な暗幕が降りてくる。

そこから先に進めない。

暗い闇。いつだって。今日もまた。それはそれでいいんだけど。

その時だった。

唇に、薄い微熱が触れる。

まぶたを開けると、ここは薄暗い部屋の中。

ここはベッドの上。

自分の上に覆い被さった体の下敷きになって、抱きすくめられている。

部屋は、ぬるい暑さに満たされている。

さっきエアコンを28度にしたからだ。

地球にやさしくしてる。

部屋に入った時の設定は20度だった。

裸でいるには寒すぎる。

体と体の間を殺すようにぴったりとくっついたって、寒い。

『そんなに寒い?』

そうささやかれたけど、何も言わずにリモコンを取った。

体温高いから、この寒さが気にならないだけなんだ。

地球よりも先に、自分の体にやさしくする必要があった。

ていうか、この部屋に来る客なんて、どうせ二人で裸になって騒ぐだけだ。

ルームサービスも温度設定にすこしは気をきかせたっていいと思う。

不愉快きわまる。

それでも、覆いかぶさるその背中に、ゆっくりと両腕をまわしてしまう。

唇の上を微熱が伝う。

もういちど瞳を閉じる。

闇になった世界。

闇の中でしわくちゃになったシャツの間から、分け入るように手を差し入れてみる。

36度7分の平熱が手のひらに、直に触れる。

手のひらに続いて伸びきった指が、お腹の横っちょに着地する。

重なった体は、びくん、と脈打つ。

瞬間、より強く抱きしめてくる。

食い込むように。食いつくように。

指が着地した脇腹の辺りから、やわらかな皮膚のかたちをすくい取るみたいに、つーっと指を背骨の出っ張りへ伝わせてみる。

背中の真ん中、薄い皮膚の下。

かすかに浮き上がる硬さ。

暗い闇の中で、筋のようなその背骨の一線を指先になぞってみる。

不思議な凹凸。奇妙な凸凹。

世界が始まる前から、ここにあったみたいだ。

まるで太古の化石みたいに。

ふと、遠い昔博物館で見た、翼の生えた恐竜の化石の展示を思い出す。

そいつは、ワイヤーで高い天井から吊り下げられていた。

無機的なコンクリートに囲まれた空で、どこにも飛べなさそうな、黄色くか細い翼の骨を懸命に広げているそいつを仰ぎ見た。

たしか、小学二年の夏休み。

あいつの名前はなんだっけ?

たぶん、プテラノドン

あんま覚えてないけど、有名な恐竜だった気がする。

それはそれでいいんだけど。

巻きついた腕は、ずり下がるようにして腰のあたりに来ていた。

キスはいつしか、深くなってくる。

ひとつの熱が浸透してくる。

全てがゼロに近づいて行く。

 

×××

 

空調が効いた店内には、油の匂いが漂っている。

薄暗い部屋を出てから、灼熱のアスファルトの上を歩いた。

汗だらだらの二人がやってきたのは、街中の、ごく普通の中華料理屋。

真っ赤なカウンターの上に、真夏でもほかほかの醤油ラーメンが舞い降りる。

飾り気の無い醤油とごま油の芳醇な香りが、あわく白い湯気になって立ちのぼる。

つるんとして透き通るようなスープに、ちぢれた麺が行儀よく折り重なっている。

卵の黄身はいい感じにとろけているし、ネギとホウレンソウは青々として鮮やかだ。

そして最後に炭火の薫り高い飴色のチャーシューが、肉食獣としての遠い記憶を覚醒させる。

割り箸を割る。スープを味わいもせずに麺を勢いよくすする。

叫ぶ。

『か〜っうめえ〜〜〜〜〜っっっ!』

『なにそれ、めっちゃおやじくさい感想』

人の素直な想いにケチをつけてくる。

『は?うっさいし』

そんな雑な切り返しをしても、向こうは意にも介さない。微笑みを絶やさずこちらを覗き込み、尋ねてきた。

『チャーシューいる?あげるよ』

『えっ、なにそれ。小さい子供とお母さんみたいじゃん』

自分のチャーシューを子供に分け与える親。

そんな場末の中華料理チェーン店の片隅みたいな光景が脳裏に浮かぶ。

『何?いらない?』

『は?いるけど?』

箸と箸とで、チャーシューを受け渡し、受け渡される。

『取引成立』

『めっちゃバカじゃん』

ついつい笑ってしまう。

こっちは何も渡してない。

取引不成立だ。

めっちゃバカ。

くだらないやり取り。

茶番劇。

それはそれでいいんだけど。

正直言ってさっきから、話を何も聞いてなかった。

話しながら、ずっと上の空だった。

なんでって?

びっくりするほど安っぽいこと考えてたから。

クッションの赤い丸椅子に、隣どおし腰掛けながら。

とてつもなくどうしようもなく、チープなことだけ考えていた。

口に出すのも恥ずかしい。

だけど言っておく。

言えるわけがないから。

きっと忘れてしまうから。

今この瞬間なら永遠に、ずっと二人でいられる気がする。

ガラス張りの入り口から、光り輝く真夏が差し込んでいる。

光の中に、二人並んで座っていた。

もっと隣で見ていたい。

笑ったりおどけたり、ありえねえ〜とふざけて顔をゆがめたりするところ。

左足を右脚の上に乗せるいつもの足組みを。

不思議なウェーブのかかった後ろ髪のひと房を。

眩しい日光が弾ける白いシャツも。

永遠に二人でいられる気がする。

それだけしか考えていなかった。

それだけしか考えられなかった。

二人の距離がゼロになっても、そんなことありえはしないのに。

きっと、忘れてしまう瞬間だから。

それはそれでいいんだけど。

本当に、それはそれでいいんだけれど。

それでもまた、考えてしまう。

何もつかめず落ちていく、どこまでも、どこまでも滑り落ちていく闇の底のことを。

そこにある硬いなにかに、今なら手が触れそうな気がする。

それは骨だ。

プテラノドンの骨。

その暗闇の中にはきっとプテラノドンの翼が、静かに永遠を眠っている。

冷たく無機的に静かに光りながら、闇の中で永遠を眠っているだろう。

何を言っているんだろう。

自分でもよくわからない。

馬鹿みたいだ。

でも、それはそれでいい。

きっとあいつの骨、プラスチック製だ。

不意にそう思った。

確かめたい。

『明日だけどさ』

『え?何?』

『恐竜見に行こう。博物館にさ』

そう言うと、向こうはわざとらしくへええ、と言いながら目を丸くした。

『でも明日、学校あるじゃん』

この人、どうでもいいこと言うなあ。

『サボる』

断言して、透き通るスープを浮きつ沈みつするメンマを箸でつかみ取り、かじった。

本当は、今すぐにでも行きたかった。

そうしないと、もう間に合わないのだ。

不思議な凹凸。奇妙な凸凹。

その肌触りが、この指先から遠ざかったら。

あいつは黙って、闇の中に身を沈めていくだろう。

たぶん、この先、永久に。

それはそれでいいんだけど。

それはそれで、いいんだけど。

 

(了)