200X年未知との遭遇
「青森の方言では、性行為のことをへっぺという。(中略)女性の性器は、だんべである。だんべ、ということばには美しいひびきがないのが、私には不満だった。小学校時代に、疎開してきたカマキリという男を二三人で奉安殿の裏に連れ込んで、
「東京では、なんというのだ?」と聞き糺すとカマキリは、知らないと言いはった。
「知らないなら、うちへ帰って母ちゃんに聞いてきな、その股のあいだにある毛の生えたところは、東京弁では何て言うのですか?ってな」
(中略)
…放課後、私たちが運動場の片隅の足洗い場でカマキリを待っていると、カマキリはやってきた。「何と言うんだ?」
と訊くと「ぼくは知らない」と言う。しかし「ぼくは知らないけれど、この中に書いてある」と言って封筒をとりだした。
「お母さんにぜんぶ話したら、お母さんが紙に書いてこの中へ封をして入れてくれた。僕のいないところで開けて見るようにってお母さんが言ったんだ」
(中略)
それから、石橋がゆっくりと封を切って中の便箋をとり出した。私もすぐにのぞきこんだ。白い便箋には、細い上品なペン字でおまんこ、と書いてあった。
」(寺山修司、『誰か故郷を想はざる』)
まことに悲しむべきことに、私は自分自身が生まれて初めて『おまんこ』ということばと巡り合ったのがいったいいつ頃だったか、どういうふうに、誰から聞いたのかはっきりと覚えていない。
小学校三年か四年の始めのころには知っていたような気がするが、やはり『おまんこ』ということばとのファーストコンタクトについての記憶はおぼろげである。
さらに言えば小学校三年か、遅くても四年の初めの頃には知っていたというのもあくまで推測である。
私の記憶における「おまんこ」の扱いがいい加減なのに対して、『セックス』ということばとの出会いはわりと明確に覚えている。
私と『セックス』とのファーストコンタクトは、小学校四年の林間学校の夜であった。
リュックと布団が敷き詰められた暗いコテージの中で『セックスって知ってる?ちんちんをまんこに入れて中でおしっこすんだってw』と誰かがふざけていた。
毛布にくるまりながら盗み聞いた、誰が言ったとも知れない(おそらく高学年のませガキだろうが)そのたわむれの言葉が、突如として私の脳裏に巨大な、あまりにも巨大な『謎』を植え付けたのだった。
今にして思えば『ちんちんをまんこに入れて中でおしっこする』のは、男性器の構造上朝勃ち時にしかできないと言われるかなり高度なプレイである。
高学年のませガキは、聞きかじりのオトナの知識を、とにかく披露したかったのだ。ちんちんがまんこの中で出す白いおしっこのことまでは、おそらく知らなかったのだ。
ませガキは、閉ざされた高い壁の中の『大人のセカイ』から、こっそりと手探りでかすめてきたほんの一握りのお宝を、とにかく仲間たちに自慢したかったのだ。
ところで、「おまんこ」を小三か小四の最初の頃には知っていたという先ほどの推測は、この記憶を根拠としている。
「セックス」という『禁断のことば』によって見せつけられた『知らない世界』とのミラクルな出会いに比べて、小四の私は別段「まんこ」に特に驚きを感じなかったのである。それどころか、ませガキ口伝の『セックス』の説明から『ちんちんをまんこに入れて中でおしっこする』情景を漠然と想像できた覚えもあるのだった。
つまり、「おまんこ」ということばはすでに小四の私には馴染みのある言葉で、おまんこがおおよそどんな形状なのかも(漠然と)知っていたと考えられる。
小四の夏の林間学校の時点で、私とおまんことの出会いから時間の経過があり、おまんことの出会いの記憶は色あせ(色素沈着のことではない)、驚くべき新鮮味を失っていたのではないか。だから小三、小四始めくらいの時点で、すでにおまんこを当然のことばとして知っていたはず…という推論である。
しかし、この時点での私は『エロいこと』への疑問と関心を持ちながらも、決定的な興味を持つことができずにいた。
『ちんちんをまんこに入れて中でおしっこする』という行為が、あまりにも無意味に感じられたからだ。ちんちんがわざわざまんこの中に入っていって、その中でおしっこしなければならないという『必然』、そんなものが自分が生きる世界にあるとは到底思えなかったのだ。
つまりその頃の私は、エロティシズムにも、優雅にも、それから『美』にも、はっきりとした意識を持っていなかったということになる。
劇的な変化がやってきたのは、その翌年だった。
父親の書斎の本棚の奥から期せずして見つけたある『恐るべき漫画』が、「絵に描いた女(文字どおり二次元の女)」への禁断の扉を開き、私を決定的にオタクの道へと引きずり込んだ。
が、完全にブログ書くの飽きたのでここで終了です。
全員に無視されてるので続きはありません。
「…だんべということばには、農家の母親の生産的なイメージしかなかったが、まんこということばには、優雅さが感じられた。それは小学生の私たちが口にするかぎりの、もっとも神秘的なことばであった。私たちは生まれてはじめて「禁じられたことば」というものにふれた。禁じられたことばと許されたことばとを区切る「時」の大扉をこじ開けて、そこからさしこむ薄い光のなかに私たちは世界をかいま見ることができたのだった。」(寺山修司、前掲書)