ホ兵の本領茲にあり

クソ最悪な鬱病の時でも、日本の軍歌を聞くと気分がブチ上がってくる

最近は特に『歩兵の本領』と言う軍歌にドハマりしている

で、その『歩兵の本領』の歌詞のことで思うことがあったのでブログに書いておく

 

『万朶(ばんだ)の桜か襟の色 花は吉野に嵐吹く』 

『歩兵の本領』という曲は、満開の桜が散りゆく光景から始まってくる。あんまり軍歌っぽい勇ましさがない立ち上がりが面白い。

でもこの後は急転直下して

『大和男子(おのこ)と生まれなば 散兵線の花と散れ』

と軍歌節全開、大和魂全押しstyleとなる。

 

これが『歩兵の本領』の1番で、私はこれが非常に好きだ。

 

日本の軍歌(特に陸軍を歌ったもの)の大半は勇ましく泥臭く無骨で、あまり詩的ではない。至上の名誉とすめろぎへの忠誠を歌って『頼るべき力強さ』、『武』と言うものを感じさせるけれども、『美しい』とまで感じさせる歌は少ない。

 

そんな日本軍歌の中でも『歩兵の本領』1番は、頭一つ突き抜けたものがある。

もう一度その歌詞を引いてみよう。

 

『万朶の桜か襟の色 花は吉野に嵐吹く 大和男子と生まれなば 散兵線の花と散れ』

 

短くシンプルだが、非常に技巧的な歌詞になっている。

技巧もクソもないような歌詞に見えるが、せっかくなので1節ずつ見ていこう。

 

まず第1節『万朶の桜か襟の色』。

「襟の色」は軍服の襟に付けられる赤い「襟章」を指している。

ここでは鮮やかな襟章を万朶、すなわち咲き誇る桜に重ねている…と言うレベルのことならWikiにも書いてあるのだが、これは単なる言葉遊びではない。

襟章と花の色の重ね合わせは、1番のラストへの伏線である。

 

続いて第2節『花は吉野に嵐吹く』。

言うまでもなくここでの「花」は第1節の「万朶の桜」を受けている。

吉野の山に吹きすさぶ花を歌っているこの一節、さりげなく軍歌要素が全くない。

第1節は「襟の色」が軍服を指しているけど、第2節はとにかく桜が舞い散りまくっているばかりだ。本当にただ散りゆく吉野の桜を歌っているだけなのだ。

散りゆく桜、これもラストへの伏線になっている。

 

そしてラストの第3節『大和男子と生まれなば 散兵線の花と散れ』。

「散兵線の花」は当然2節の「花」を受けている。

情緒にあふれた1、2節と歌詞のノリが打って変わり、日本人の男なら第一線で死ね!と元気いっぱいである。

 

ラストでいきなり流れ変わって「大和男子と生まれなば〜」とくると、いかにも唐突な印象を受ける。

しかしこの1番の歌詞の第1、2節と第3節、実のところ全く同じことを歌っている。

というか、第1、2節があって初めて第3節が生きるのである。

 

桜の花に赤い襟章の軍服、すなわち歩兵を重ね合わせる。「桜の花=歩兵」である。その桜の花の吹きすさぶ吉野の山の様を描き、「散りゆく桜」のイメージを呼び起こす。「桜の花=美しく散りゆく」のだ。

 

つまり、「桜の花は歩兵」であり「桜の花は美しく散る」。

そうなれば『桜の花』である『歩兵』が散兵線の『花』と『美しく散る』のは至極当然のこととなる。

したがって一見情緒的な第1、2節からの唐突に勇猛果敢な第3節の歌詞は、優れて意識的に構成されていると言える。

 

そうは言っても、私は意識的な演出・論理的な構造を持っているからこの歌を好きなのではない。そういうものは美しさとは別のものだからだ。

私はこの曲の歌詞に、美というものと武(≒暴力)というものとが融けあう瞬間を見るような気がする。

だから、この曲に美しさを感じるのだ。

 

『歩兵の本領』についてはまだ書きたいことあるけど、文章がクソ長くなってきたのでこれ以上はやめます

あとこれだけは言っときたいんですけど、Youtubeに上がってる『歩兵の本領』の動画のコメント欄にいっぱい湧いてる国語の苦手な国粋主義者の皆さん、全員東京湾に叩き込みたい