健常者
昨日は池袋に聲の形を見に行きました。
予約した上映時間の一時間半以上前に池袋駅に到着したのですが、これといって全くやることがありませんでした。
ゲーセンで遊ばないタイプのオタク顔のオタクなので池袋駅東口周辺のゲーセンに入って時間をつぶすと言う選択肢もなく、目の前に見えるABCマート池袋店とその向かいのアドアーズサンシャイン店、隣接するシネマサンシャイン池袋を通り過ぎて人ごみを縫い、おととし楽園追放とか言うオタク映画を観たHUMAXを通り過ぎ、東急ハンズの所で右に曲がり、重層的に入り組んだ首都高の高架脇のビル一階にひっそり潜むなか卯を通り過ぎ、JKリフレの売り子が立っている角を避けて脇道に入り、全く人気のない裏路地の飲屋街を通り過ぎた先に見えて来た蒙古タンメン中本を通り過ぎるとABCマート池袋店が見えてきました。
つまり私は池袋駅東口の繁華街の中を小さく無意味に一周したのでした。
いくらなんでもあまりに無意味すぎるので、私はやむなくABCマートの左隣のルノアールに入りました。
いっぱしの人間だったら人生の中で通過儀礼的に経験するような様々なライフイベントの全てをことごとく回避し(もしくはライフイベントの方から回避され)通り過ぎて来た私は、これまでに喫茶室ルノアールに入店したことがありませんでした。
私は窓際の席に座り、クソデカい聲で三回にわたって店員を呼び、後ろの席のママ友同士らしい子連れ二組に怪訝な目で見られながらドリップアイスコーヒーとブルーベリートーストを頼みました。
池袋東口のルノアールはビル二階にあって、窓の下の通りを意味不明な数の人間が無限に行き交っていました。街頭の傍で道行く人に何か言いながらあざといポーズを作って客引きをするメイド喫茶の女(全員に無視されてた)、向かいの雑居ビルの階段で雑談している男女のつがい。メイドの聲もつがいの聲も、当然こちらまでは届きませんでした。
そんなふうにしてNOTHINGNESS CITY IKEBUKURO を見ていると、やがてドリップアイスコーヒー(640円)が出てきました。外を見飽きてスマホを見ているとブルーベリートースト(330円)が出てきました。330円のブルーベリートーストはクソ高いドリンクとセットでなければ注文出来ないシステムになっていて、店内に無限に居座る乞食客を絶対排除しようという店側の『キモチ』が感じられてアツかったです(トーストは冷めていました)。
フォークを手に取ってブルーベリートーストに手をつけようとした瞬間、後ろの席のママ友の片割れの子どもがお冷やを床に落として叫び、母親がヒステリックに怒り、店内は地獄となりました。背後から立ち上る母子の喚き聲をガン無視しながら食べたブルーベリートーストはそれなりにおいしかったです。でも二秒で限界来た。
会計をしてルノアールを出ると、すぐ目の前にシネマサンシャイン池袋。ちょうど映画が終わった所らしく、劇場から出て行く無数のつがいがチンタラチンタラクソ狭い出入り口でひしめき合っていました。その中をかき分けて場内に入ってチケットを発券し、エレベーターで上映シアターへと移動しました。
予約した時点では、私が取った席は両隣が空いていたはずでした。しかし私が劇場に行った時にはシアターはかなり人が入っていて、すでに両隣の席は客が入って埋まっていました。狂った狭さの座席と座席の間を無理矢理に移動して、どうにか自分の席にたどり着きました。
その後は特に言うこともありません。「聲の形」そのものは面白かったです。左隣の男子大学生集団が「今日池袋でオールすんの?」「やべえ全然話が頭に入ってこねえわ」とか上映中に聲に出して喋っていたり、右隣のオッサンが明らかに変なタイミングであからさまに吹き出したり笑いを堪えたりしていたおかげで非常に思い出深い映画鑑賞となりました。
池袋に限らないですが、渋谷とか六本木とか表参道とかそういう街は健常者ヅラなので嫌いです。新宿みたいに正々堂々「終わってる感じ」があまりしない。
死ぬまでに一度でいいから廃墟と化した109を見てみたいですね。池袋じゃないけど。
怪談
夏のクソ蒸し暑い昼下がりのことだった。
色々あって鬱病状態になっていた私の頭の中を、松屋のおろしポン酢牛めしの幻影が駆け巡っていた。
通りかかった松屋の店内を覗くと、短い昼休みにわんさか湧いて出て来たサラリーマンのワイシャツの背中がカウンター席を隙間無く埋めていた。
今日は松屋にすら縁がないらしかった。そのまま立ち止まる事無く松屋を通り過ぎて歩く。
歩きながら私は近くにある家系ラーメンの店のことを考えた。
午前中は走ったり汗まみれになったり流血したりして体力を消耗したし、ここらで狂った量の油と塩分と小麦粉の塊を腹に入れるのもアリか…と思ったから。
しかしそこまで考えた時私の脳裏でギトギトした家系スープが氾濫し、思わず立ち止まってしまった。
冷静に考えればジメっとした暑さの中で食べる家系は地獄としか思えない。
食べきれる自信が無い。もっとあっさりしたものが良い。
ふと見ると、私が立ち止まったのはちょうど寿司屋の前だった。
寿司屋と言っても個人経営ではなくチェーン店のようで、今はちょうどランチタイムだった。日替わりにぎりのランチが790円(みそ汁付き)。
(みそ汁付き)という単語に惹かれやすい私は、ふらふらとその店に入った。
店の中はガラガラで、先ほど覗いた松屋と比べれば静かで落ち着いていた。
日替わりにぎりランチを注文し、「追加のご注文がございましたらお気軽にどうぞ〜」という店員の声を頑に無視しているとやがて寿司が出て来た。
まぐろ・いか・えび・カツオ・炙りサーモン・玉子・ネギトロ軍艦・鉄火巻×3・カッパ巻×3 というラインナップで、いかにもランチメニューだなという感じがする。
とりたてて旨くもなく、かといってとりたてて不味いわけでもない普通の寿司をそれなりに満足しながら食べていると、あおさみそ汁とセットのサラダが出て来た。
いかにも「たった今みそ汁サーバーから出てきたばかりです」とでも自己紹介しそうな薄いみそ汁が、松屋への郷愁の念を淡く駆り立てる。
サラダの上に乗ってるベビーキャベツの形が判然としないほどにぶっかけられたフレンチドレッシングの安っぽくキツい酸味も、松屋のカウンター卓上に常備されているドレッシングを思い出させる。
せっかく寿司を食べているのに、私の頭の中は松屋で一杯になってしまった。
しかしここは松屋ではないのだ。
何かを食べようと思ったら、安直に松屋で済ませようとしてしまう自分。
いつしか松屋フーズの店に安心感を覚えるようになってしまったことにうんざりしていた私にとっては、何となく入った全く知らない店で食事することが思いのほか大きな冒険だった。そしてそれは案外、悪い気分のものではなかった。
今度また、この店に来てみようと思った。
そういえば店の名前をよく見ていなかった。
私は家に帰ってからグーグルマップで今日入った店の位置を調べ、出て来た店名で検索した。
すた PART3
昼にすた丼屋に行ったのに、その日の夜すためしどんどんに入店した私は鬱病夢気分だった。
全く何の感情もなく和風おろしハンバーグ140g830円の食券を購入し、カウンター席に腰を下ろした。
今日もまた、何もない一日だった。
街角のテッシュ配りの兄ちゃんにはことごとくスルーされ、駅を歩けば、制服の女子高生とスキニージーンズのチャラ男が手をつないで歩いているのに出会う。工事現場脇の簡易トイレに入って行くインド人の後ろ姿を見た。立ち寄った本屋には「これ全部捨てた方がい〜んですか〜?!」と言いながらリュックから白い紙ゴミを投げ捨てている五十代のちっちゃいおっさんと、微笑をいっさい崩すこと無く「全部持ち帰って下さい」と言いながら対応をしている警備員。
街。
毎日街を歩いている。
私は探している。
毎日街を歩いていると、自分には街を歩く才能が無いという事実に気づかされる。
見つけることができないのだ。
早くそこへ帰りたいのに。
和風ハンバーグが出てくる。
割り箸を割る。
失敗してだいぶ歪に割れる。
プラスチックのような味の、付け合わせの固いブロッコリーを齧る。
ブロッコリーの隣にはコーンが盛られている。
箸で攻めるにはキツい。だったらなぜ最初から割り箸でなく、その横に置いてあるナイフとフォークを選ばなかったのか。
取り返しの付かないことをしてしまった。
そして後に残されたのは、150gの心躍らない肉の塊。
これは代替品でしかない。
これは“本質”ではない。
そうこうしている私の後ろの席に、女連れのチャラ男がやって来た。
すためしどんどんに女を連れてくるな。
私は帰りたい。
“本質”のあるところへ。
割り箸にも、固すぎるブロッコリーにも、掬いづらいコーンにも悩まされることの無い
聖地、びっくりドンキーへ。
レギュラーバーグディッシュ150g、783カロリー。
その地において人びとは、668円(税込721円)で天国に行くことができる。
すためしどんどん全部潰して速やかに全店舗びっくりドンキーにしたほうがいい。
(びっくりドンキーに女連れがいるのはまだなんとなく納得出来るが、それはそうとしてすためしどんどんに女連れで来るのは本当にまったく納得がいかない。そう訴えたい)
以上です すためしどんどん最高!
支配
今日も一日虚無だったのですが、TLを見てたら『「支配者」という言葉に【「支」えて「配」る者】と送り仮名を入れると半端なく素晴らしい人になる』と言っている人がいて、ホンマかよいい加減なこと言うなと思ったので『支配』という単語をgoo辞書くんで調べてみました。
まず「支配」の『支』。
4の「物事をはかる」に『支配』が例示されてますね。「支配」という言葉の『支』は物事をはかる(=物事を推し量って見当をつける)という意味のようです。
続いて「支配」の『配』。
5の「指図が行き渡る」に「支配」が例示されてます。「配」ってそんな意味あるんすね…ただ漠然となにかを配ってるだけではなかったようです。
最後に『支配』そのものの意味。
これを見るかぎり「支配」という言葉は古くは3の意味、「仕事を配分したり、指揮・監督したりして、部下に仕事をさせること」というところから発しているようです。3の例文「宇治の大臣 (おとど) 、成佐が弟子どもに―して、一日に三尺の地蔵菩薩の像を図絵し」 の出典である「著聞集」は1254年、鎌倉時代中期の説話集。その内容は平安中期から鎌倉初期の日本の説話ということです。言うまでもなく古語のオンパレードです。
例文は「宇治の大臣が弟子に地蔵菩薩の絵を一日に114センチくらい描かせている」くらいの意味でしょうか。シチュが理解出来ないのですが、ともかく宇治の大臣が弟子に命じて絵を描く仕事(修行?)をさせているということらしいですね。
上記の「支」「配」という漢字それぞれの語義もあわせて考えると、「支配」はもともと『(上司、上役など上位の存在が)物事を推し量って見当をつけて、部下に指図が行き渡るようにして、ちゃんと仕事をさせる』くらいの意味だったようです。
こうした意味が転じて現代の『支配』という言葉の意味、すなわち「ある地域や組織に力を及ぼして、自分の意のままに動かせる状態に置くこと」とか「ある要因が人や物事に影響を及ぼして、その考えや行動を束縛すること」というところに移り変わっていったようです。
昔は「ザ・上司のお仕事」と言った感じの意味だったのが「何者かを束縛したり意のままにできる」という意味に転じていった訳です。日本人にとって上司がクソヤバくて絶対的で恐るべき存在である、というのは八百年ちかい時間を経ても伝統的なイメージのようです。流石と言った感じです。どんだけ上司嫌いなんですかね。
ともあれ、パっと調べるかぎりだとこれがそもそもの「支配」という言葉の意味みたいです。
そう考えていくと『支配者』を『「支」えて「配」る者』と解するのは適当ではないようです。
そもそも『支配者』の『支』は「支える」という意味じゃないんですね。「配る」ものも指図とか命令とかに限定されるみたいです。命令や指図を配られてうれしい人、世の中の多数派ではないと思うんですよね、少なくとも。もらったってうれしくないもの配ってるひとを素晴らしい人とはなかなか言いがたいところです。
もっともその人は「支配者」という言葉に『神』というニュアンスを込めているようでした。そういう視点から言うなら、『宇宙、万物の秩序をはかって、その秩序を行き渡らせる(配る)者」くらいの意味なら「支配者=神」という見方は割と適切なんじゃないかなと思います(聖書とか研究したことないのでかなり乱暴な議論ですが)。
そんな感じのことを考えた一日でした。今日もお昼は松屋でした。おわり。
(P.S. ガチでソースがgoo辞書のデジタル大辞泉だけなので、もっと正確な知識のある方がいらっしゃったらお教え頂けると幸いです)
悲願
今日はなんと松屋に行きました。
朝、駅の近くにある松屋の前を通り過ぎた時、私は今日は死んでも松屋には行くまいという決意を固めていました。昨日も松屋に入ったからです。
それから数時間後、雨の降りしきる昼、気づいたら松屋に突入していました。マジで引力に引きずり込まれるみたいだった。
昼休みのドカタの方々や枯れ果てたサラリーマンや枯れつつあるサラリーマンやこれから枯れていく若いサラリーマンや意味不明の無職っぽいおっさんでごったがえす白昼の松屋にいると、自然に生きている意味を考えてしまう。
我々は何のために生まれてきたのか
我々はネギ塩豚カルビ丼を食べるために生きている訳ではない
生野菜サラダ(110円)を食べるためではない
松屋で消費されていく人生なのか 松屋が人生を消費しているのか
無職っぽい私服のおっさんは無職なのではなくて有給を消費してるだけなのか
有給休暇のお昼に松屋に来るおっさんの生の意味とはなんなのか
早く松屋でご飯食べなくてもいいようになりたい
自殺をすればALL OKに意識は収斂していく
冷静に考えたら今日は雨の日だった
すた丼が雨の日サービスで餃子無料の日だ
完全な敗北が舞い降りる
人生には三つある
①松屋しかない人生 ②すた丼しかない人生 ③松屋とすた丼がある人生
一生②でいい
すた丼を引いたら何も残らないブログしか書けない
だれか助けてくれ
ア
初夢
私はどこまでも続く長い道路を歩いている
道路では私の後ろからやってきた車が次々と私を追い抜いて走り去っていく
私は歩いて逃げている 何か恐ろしい脅威が迫っているらしいから
歩き続けていると人家や駐車場がちらほら見えてきた
街はもうすぐだ
そのうち予想もしない事態になった
駐車場や建物のガレージから次々と車が出てきて、私が歩いている歩道を猛スピードで通り抜けて道路に出ようとする
何度も轢き殺されそうになりながら、私はひたすら歩道を歩いて逃げていく
やがて街の入り口の交差点にたどり着く
すると街の中心のほうから旋律が聞こえてきた
車のクラクションで演奏されるその旋律には聞き覚えがあった
クラクションによるクソ雑な演奏とはいえ、それは死ぬほど聞いたことのあるメロディだった 私が聞き違うはずもない
真理の御魂・最聖・麻原彰晃尊師を讃える彰晃マーチが街を埋め尽くしていた。
というところで目が覚めました
私は新年早々日頃の修行の成果が現れましたが、みなさんの初夢はどうでしたか?